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アツタは、第二次世界大戦頃にドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造されたDB 600シリーズエンジンを、大日本帝国海軍(日本海軍)の指示で愛知航空機がライセンス生産した航空機用エンジン。DB 600Gをライセンス生産したアツタ11型(海軍略符号:AE2A)、DB 601Aをライセンス生産したアツタ21型 (AE1A)、その性能向上型としてアツタ32型 (AE1P) などがある。艦上爆撃機彗星、特殊攻撃機晴嵐に搭載された。なお、日本陸軍の指示で同じくDB 601を国産化したエンジンに川崎航空機のハ40がある。 == 国産化の特徴 == 原型のDB 601Aエンジンは戦闘機Bf 109にも搭載された液冷エンジンで、ボッシュ製直接燃料噴射装置や流体継手による無段階変速過給機(スーパーチャージャー)を備えた世界最先端の高性能エンジンではあったが、クランク軸に嵌入するコンロッドの大端部にニードルローラーベアリングを採用するなど、極めて精緻な構造となっていた。国産化に当たっては、優秀な日本人技術者がいても、精緻なパーツを生産する最新の工作機械および原材料資源を十分に確保することが出来なかったため、ドイツ本国の設計図通りに精緻な部品を量産することが出来なかった。それゆえ工作機械を用いた大量生産に向けては、日本の国内事情に合わせた独自の改変を行わざるを得なかった。例えば原型のDB 601が当時の多くの液冷エンジンと同様にエチレングリコールを冷却液に用いていたのに対し、アツタは純水(防錆剤等は含まれる)を冷却液に用いる高圧水冷方式に変更していた。特殊な冷却液を必要としないメリットがあったものの、冷却水に高圧をかける関係上、シールなどが不十分だと冷却水漏れが発生しやすいという欠点もあった。 陸軍のハ40同様、戦略物資の使用制限からクランク軸のニッケルの使用量が削減された。なお、当初の量産型であるアツタ21型ではニッケルマンガンクロム鋼を使用していたが、改良型の32型ではニッケルの入手性の悪化からシリコンマンガンクロム鋼に切り替えており、これが焼入れ性の悪化等に繋がった。愛知では対応策としてクランク軸の焼付処理を長時間化して強度を確保することにしたが、それでも完成品の歩留まりは低かった〔「世界の傑作機 No.69 彗星」73頁。〕。結果的にこの工程は生産上の隘路となったが、完成品のアツタは全体的にハ40より程度がよく、整備さえ行き届いていれば空冷エンジンと変わらなかった。事実、半ば遺棄状態であった同エンジン搭載機を集めて編成された「芙蓉部隊」では、整備兵へのきちんとした教育によって戦争末期であるにも関わらず高い稼働率を維持した。 アツタ32型では出力向上の一方、信頼性と生産性の向上のために一部補機類(発電機など)を日本製の既存品に交換するなどの措置を受けており、上記クランク軸の材質変更も含め、その相違点は多岐にわたった。21型の生産は1943年(昭和18年)10月度に一旦終息に近い状況になるが、32型の本格的な生産立ち上がりは翌1944年(昭和19年)3月以降となってしまった。21型の生産は1944年(昭和19年)1月から再び増加し、5月まで月産二桁の生産が続けられたが、この1943年(昭和18年)度後半のアツタ生産の減少が彗星の生産滞留機、所謂「首無し機」の大量出現、ひいては空冷型彗星の出現の一端となった〔「世界の傑作機 No.69 彗星」73頁。〕。32型の生産立ち上がり以降は生産数は安定した。愛知航空機では1944年(昭和19年)7月から空冷型である彗星33型の生産を開始し、翌月をもって水冷型彗星の生産を停止したが、アツタ32型自体の生産は続行され、第11海軍航空廠(第11空廠)生産機や他機種の搭載分、あるいは既生産機の補用品として、大戦末期まで一定のペースで生産が続けられた。 最終的な生産数は21型835基、32型863基であった〔「世界の傑作機 No.69 彗星」72頁。〕(水冷型彗星は愛知で11型705機、12型が281機、他に第11空廠で約430機、また32型を搭載した特殊攻撃機晴嵐は28機ほど生産されている〔「世界の傑作機 No.69 彗星」21頁。〕)。同様にオリジナルのDB 601を基礎とするハ40から発展したハ140の絶望的としかいいようのない生産状況とは全くといっていいほど対照的となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アツタ (エンジン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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